日本初の町営ホテルですか?
とよく聞かれます。
国際観光局が蒲郡町営蒲郡ホテルに融資したという記述はあります。
※国際観光局:1930年(昭和4年)4月に鉄道省の下局として設置された局
国が町営ホテルに融資する。。。町の予算で作れないほどのホテルってすごい金額であると推察できますが、文献によると国からの30万円、常磐館の経営者でもあった瀧信四郎氏の寄付金10万円、合わせて40万円の資金で1932年(昭和7年)に着工とあります。そもそも実質の経営者である瀧信四郎さんが寄付というのも疑問です。推察するに国際観光局の文献に融資した先は全て県営、市営、町営(蒲郡のみ)となっていますので、いち民間企業に融資するのではなく自治体に融資し、各自治体が民間に運営を依頼するというのが主流だったのではないか。
40万円という金額、安いですよね、いえいえ、昭和9年戦前の話ですから。では現在に換算するとどのくらいなのかという疑問が出ます。。。正式ではなくざっくりと大正の終わり頃は1円=5,000円、昭和13年頃には1円=2,000円位との記述を見ます昭和に入り急激に変動となると1円=3,000円とすると12億ということになりますが、この建物現在12億では建てる事はできませんよね。絶対。。。換算はできないという結果に。
当時の町財政からすると年度の収入が17万8,000円しかなかったことから30万(1.68倍)の借り入れをするということは規模感としては、単純に現在の蒲郡市の384億から換算すると645億相当の借り入れをするということが想像できる。それだけ当時から観光に活路を見出していた先人の気持ちがうかがえますね。やはり素晴らしい建物です。当時の屋根の色は銅色だったのでしょうか???
ちなみに実際には大蔵省から蒲郡町へ直接融資ではなく、大蔵省から第一勧業銀行を経て融資されているという先生のお話しも聞いております。横浜市などは大蔵省に年利3分8厘で融資を受けホテルから市へは賃料という形で返済(?)、蒲郡町は大蔵省→第一勧業銀行へ年利3分8厘?→蒲郡町へ4分5厘での融資。
日本政府の国際観光政策である昭和4年(1929)浜口内閣による 「外客誘致」政策(国際観光政策)の推進 →国際観光地選定には名古屋⇒名古屋城、犬山、知多半島の海岸等があり蒲郡など三河湾は入っていないという部分からも当時の融資は異例であったことが伺えます。
しかしながら国策である国際観光ホテル計画の申請は全国40余りあったようですが、蒲郡町は横浜市と共に第一内定を1932年(昭和7年)に取り付けた。
ところがその頃の町の財政は年間178,000円の収入しかなく当時の大村賢次町長は名古屋の滝家へ1週間も通い続け滝家から府相海岸で経営する常磐館の土地建物を担保にする許可を得てやっと融資が受けることになったそうです。この関係で第一勧業銀行の経由になったのかもしれません。
運営は株式会社常磐館が運営していたという記録があり、先日株式会社常磐館の帳簿も確認しました。しかしながら「外国人誘致にあたって新設される観光ホテルには大蔵省預金部資金が低利で地方公共団体に融資され、経営は民間に委託し全額回収された時にこれを払い下げる方式がとられた」という記述がありますが払い下げ。。。とは。。。ん〜。。。
※「払い下げ」とは、国が所有している物品や土地などを、民間に売り払うことを意味します。 … 国有地売却に関しては、財務省のホームページに「国有財産の売却情報」というページがあり、各地域の国有財産の売却情報を調べることができます。
町営とは町が運営をすることであり、運営は常磐館が行っていたという記述も確認しましたので今回は一旦、日本初の町営ホテルではないという結論にしました。
では国から町が融資した30万円という大金は返済したのか?いつ払い終わったのか?それとも竹島橋や竹島館、海岸1万2200平方メートルのを埋め立てて寄付等を代償に免除されたのか?書籍には寄付寄付ってありますがすごすぎます、不思議ですよね。ここはもう少し謎にしておきましょう。