株式会社蒲郡ホテル社史

ホテルの歴史
下記は株式会社蒲郡ホテル社史という題名で手書きされたものです。明治45年に開業した常磐館、当初株式会社常磐館として創業、昭和50年に株式会社蒲郡ホテルと名称変更したようですが、現在の蒲郡クラシックホテルの歴史のベースであり戦前戦後長い期間の歴史です。

当社の古文書では滝兵右衛門氏が明治38年2月9日隠居によりその子である滝信四郎氏(今から三代前)に土地の所有権移転の申請登記が明治41年1月17日になされ相続開始されこの地に建物を建築したのが現存する常磐館である。明治末期にかけて常磐館の一帯と今の蒲郡ホテル、事務所の土地、駐車場、女子宿舎辺りを沢山な地主から買収して現在に至った。
きくところによると常磐館という名はこの地に近藤さんという方が所有しておられその方は当時の地名でいう額田部常磐村大字米河内字日影25番地に居があって建物の名をこの方の地名の常磐から名づけたという話がある。
料理旅館を開業したのが明治45年3月、開業当時は名古屋ホテルなど専門業者4人に経営を委託していたが2年後委託経営を解除して三村三時を支配人にして自力経営にふみきった。
大正2年12月10日 (株)常磐館創立総会開催
資本金20,000円 1株50円 400株 筆頭株主 瀧信四郎
社長 武山純造
取締役 伊藤直吉
〃 松岡鐐太郎
〃 高田鉄次郎(ナゴヤホテル)
〃 杉山半次郎 ※岐阜 萬松館?
監査役 加藤兵次郎((株)滝兵商店取締役)
役員報酬 常務 1年 20円
取締役 〃 10円
監査役 〃 10円
旅費 汽車賃 2等 滝本家へ出張の時
馬車賃 80銭 」
汽車賃 2等 他地方へ出張の時
他 実費 」
常磐館本館は明治45.3建築 新館離れ(今の8室)当時は通称 菊別館といった
これは大正1年建築をもって営業を開始する

大正 2年12月15日 豊橋区裁判所 蒲郡出張所へ法人設立登記
大正 2年 15日 豊橋税務署 御油警察署へ宿屋兼料理業の開業届
大正 2年 蒲郡町に電灯がともる。当社は夜間非常電源による発電機がおかれ夜はアカアカとともる
暴風雨で塩津村海岸堤防が決壊し被害甚大
大正 3年 創業初年度前件は当館の知名度少なく来客数少し、夏場海水浴客でにぎわったが
後半は日独開戦のため財界不信営業低迷
大正 4年 竹島八百富神社の鳥居を建てる
常磐館のモーターボートで客をのせていた(最先端の乗物であった)
大正 4年 7月 海水浴客は増加したが7月初旬の村落赤痢発生まんえんし来客数減少
大正 5年 離客室(通称 梅別館)建築営業 鶯宿亭茶室建築(最高材料をもって建築)
大正 5年11月 欧州戦役のため景気上昇し来客数増加したが原料高くなり利益なし
大正 5年12月 資本金5万に増資
社長 武山純造辞任 後任に尾関保五郎就任
大正 6年 4月 8日 35日間 竹島八百富神社大祭 来客数甚だ多し 仮橋架設する
大正 6年 8月30日 暴風雨のため海水浴客無し その後原料騰貴大損失
大正 6年 離客室(通称 松別館、竹別館)建築 東府相の浜で海軍航空隊の演習実施
大正 6年 名古屋銀行蒲郡支店開設
大正 7年 8月 各地で米騒動おき且つ出兵のため来客数減少 尚又 物価上昇損失大
大正 8年 9月16日 暴風雨で建物庭園等に大損失 この復旧工事その他の修理に多大の費用をかけ大損害であった

大正 9年 5月13日 武山純造氏が社長となる
大正 9年11月 本館の設備充実し風致の絶佳なるをもって漸く世に知られるようになった
大正 9年 明治銀行 蒲郡派出所開設
大正 9年7・8月 海水浴客で連日満館
大正10年7・8月 〃 〃
大正12年 4月 竹島弁天祭来客数多し 仮橋架設する 蒲郡~豊川間バス開通
大正12年7・8月 夏季天候順調連日満館
大正12年 9月 1日 関東大震災により以降来客数激減
大正14年 9月11日 台風来襲雨量250.3mm被害多し
大正14年12月20日 初の配当金支払 金2,500円也 この年ラジオ放送始まる
大正15年 9月 4日 暴風雨により大損失を受ける
大正15年12月 ご大喪以後 一般経済界変動著しく人心動揺し成績低下す
昭和 3年 4月 大宴会場(100畳の間)建築し来客数多し
昭和 5年 2月 従業員宿泊寮完成
昭和 5年 3月 安芸(広島県)の厳島神社を模写して緑と朱塗りの大衆娯楽場の共楽館
(現在事務所、売店(現敷屋内常磐館駐車場)を含めた北隣りの駐車場一帯)を新築営業、
玉突ピンポンの娯楽室建築、売店、射的、演芸場、浴室、食堂等を経営した
昭和 5年 8月 八百富神社社叢 国の天然記念物に指定される
三河大島が海水浴場キャンプ場として国鉄から指定される

昭和 5年 9月 物価低落し宿泊、飲食料金を値下する
昭和 5年11月27日 資本金増資して50万円となる
昭和 6年 9月 大株主 滝信四郎氏 海岸と竹島を結ぶ竹島橋の建築のため岡崎市 小原建設に31,700円で請負せる
昭和 7年 4月20日 竹島橋完成(長さ403m 鉄筋コンクリート製 総工賃85,000円)
大株主 滝信四郎氏 蒲郡町へ寄付する
昭和 7年 4月 竹島海岸を埋め立て蒲郡市に寄付する(12,200m2)(昭和6年着工)
現在の仙遊亭の南の芝生(以前こゝに竹島館があった)その南の観光協会経営の駐車場になっている所
そして女性のブロンズ像のある緑地帯
昭和 7年 4月 緑別館建築営業(現在の緑西閣)(待?式)
陶器場(製陶場、陳列室)新築(現在の簡易式女子宿舎のある所)
昭和 7年 6月12日 国家の要望により観光ホテル建設のため当社敷地9836.49坪
常磐館建物全部を蒲郡町が日本勧業銀行より低利融資30万の担保として提供する
又30万円の他に大株主 滝信四郎氏は10万円拠出
昭和 7年12月23日 ホテル建築は村瀬国之助技師の設計により大林組が着工する
昭和 8年 2月 1日 三村三時取締役に就任する
昭和 8年 3月25日 竹島海岸を埋立てた竹島遊園地施設工事を昭和7年9月19日 戸田組に請負わせ
工費2万円で完成し蒲郡市へ寄付する
昭和 8年11月 新箱根鉢地坂トンネル完成(滝信四郎氏の助言により)
昭和 9年 2月 蒲郡ホテル完成 鉄道省より㐧一回国際観光ホテルに指定された
昭和 9年 2月 トヨハシ~蒲郡間 周遊バス運行開始 三河大島でナメクジウオ発見
昭和 9年 7月 蒲郡海岸~新箱根(鉢地坂トンネル通過)~本宿間バス運行開始
昭和10年 3月 三谷町丘上に子安弘法大師立像を滝信四郎氏個人にて建築寄附

身長 18.7m 鉄筋コンクリート造り セメント8,000袋 鉄材6トン 総工費15万円
昭和11年 三河鉄道の三河鳥羽~蒲郡間開通(現在の名鉄)南駅が開業
昭和12年 4月26日 竹島海岸に竹島館(大衆旅館)を新築 蒲郡町へ寄付する
建築費 58,690円 瀧信四郎氏は建築と同時に蒲郡町との間に竹島館及び竹島遊園の運営を当社に
委託させてもらい20年契約にて家賃を支払い竹島観光開発の原資とするよう進言した
竹島館は今のタキヒヨービル(現名古屋東京海上ビル)の建築の前には6階建であったがその6階建の
ビルをたてる前のタキヒヨー(株)の事務所兼宿舎を解体して海詰竹島海岸へ運んで出来た建物
昭和12年 7月 蒲郡町は滝信四郎氏の助言もあって五井山一帯の一大観光地を建設準備しロープエーの建設を
完了したところ日支事変おこり中止となる
昭和13年 1月 社長 武山純造辞任し後任に三村三時が代表取締役となる
昭和13年 7月 竹島館の営業権を得て営業を開始する 20年の賃貸借契約結ぶ
昭和13年11月26日 大株主 滝信四郎氏 死亡 享年72才
滝兵右衛門氏相続する
昭和15年12月24日 荒川祥平氏取締役となる
昭和16年 昭和14年9月18日以来販売物価の停止命令をうけ昭和16年には統制経済並みに実績配給等の
実施により買入品は困難となる
昭和16年12月 東海銀行 蒲郡支店開設
昭和16年12月 8日 大東亜戦争開設
昭和16年12月20日 武山純造氏 取締役会長に就任
昭和19年 5月10日 当社全域 常磐館 蒲郡ホテル 緑別館 共楽館 竹島館を日本陸軍病院へ提供し営業休止する
当社の男子従業員は殆どが招集応召となり女子と老令者のみになり傷病軍人に奉仕する
昭和19年12月 7日 大地震発生 被害 大

昭和20年 1月13日 三河大地震発生 被害 大
昭和20年 8月15日 終戦
昭和20年 8月15日 昭和19年5月10日の病院提供会場
昭和20年10月15日 全館米軍に接収 休暇を得た米軍人のレストホテルとして使用(三河大島も同)
昭和20年10月15日 当社の本社事務所を府相町浜ヶ 渡辺佐幸?方に設置する
昭和21年 常磐館は当社女子従業員宿舎となる
昭和21年 米日協会誕生する 新円切換
昭和22年 大株主 滝兵右衛門氏 株式を譲渡し吉野信次氏(元 運輸大臣)
五島良吉(現 丸佐株式会社の前社長)の各氏株主となる
昭和23年 7月15日 資本金300万円となる
昭和23年10月 1日 当社 健康、厚生、失業、労務保険に加入する 被保険者 274名
尚この他県渉外課所属の出向社員は40人でこの人は被保険者に入らない
昭和24年 4月 1日 昭和23年10月1日に加入しなかった県渉外課出向員当社の従業員となり被保険者の一員になった
昭和26年 1月 1日 㐧二次資産再評価法の規定に従い再評価を行う
昭和26年 4月 三河大島 米軍より接収解除される
昭和26年 8月 当社蒲郡ホテル国際観光ホテル整備法による登録ホテルに指定される ホ 㐧46号
蒲郡ホテル、緑西閣、松別館、竹別館、梅別館、鶯宿亭 そのた
常磐館と大宴会場、共楽館を除く全建物に適用された
昭和27年 3月 1日 無償増資、再評価積立金900万を繰入れ資本金1,200万となる
昭和27年 1月 当社に労働組合設立される

昭和27年 1月20日 取締役に吉野信次、五島良吉の両氏就任する
昭和27年 3月 当社 昭和27年5月31日をもって接収解除される事を通告をうけ
会社と労働組合との間で退職金交渉を行う
昭和27年 5月31日 当社全域 米軍の接収を解除され全員解雇
1部の従業員は残務に従事する(約15名) 15名は6月30日再解雇
昭和27年 7月 1日 営業再開に備え新従業員94名採用 同日付で被保険者となる
昭和27年 7月 9日 緑別館(現 緑西閣)と蒲郡ホテル営業開始する(本日雨)
昭和27年 7月20日 竹島館営業開始する 同時に共楽館も再開する
昭和27年12月 1日 常磐館営業再開する
昭和28年 4月 1日 800万増資し新資本金2,000万になる
昭和28年 1月31日 蒲郡に大雪降りホテル全域 雪景色 一大景観であった
昭和28年 9月25日 台風13号により蒲郡地区全体海岸部は床上床下浸水し被害大 当社も多大の損失をうける
昭和28年12月 1日 㐧三次資産再評価実施
昭和30年 3月30日 皇太子殿下 当蒲郡ホテルにおいでになる
昭和30年11月22日 取締役 荒川祥平、吉野信次両氏辞任し吉野信次は運輸大臣となり
荒川祥平は名古屋駅前の毎日ビル内ホテルニューナゴヤ取締役となる
昭和31年10月 清宮様 当蒲郡ホテルにおいでになる
昭和32年 4月10日 天皇皇后両陛下 蒲郡ホテルに2泊される
昭和33年 義宮様 当蒲郡ホテルへおいでになる

昭和33年 3月 渥美湾、三河湾を中心にした国定公園に指定され竹島を主題にした記念切手が発行された
昭和34年 9月26日 伊勢湾台風により被害甚大
蒲郡ホテル屋根 銅坂、常磐館 旧館、離客室 大損害をうけ特に離客室(菊別館ともいった)は倒壊した
全館共1ヶ月有余休業し復旧工事を開始した
昭和34年11月 離れ客室新築(鉄筋コンクリート造伏セ屋根方式)外観は木造のよう
8室冷暖房完備 防火設備をもうける
昭和35年10月 離れ客室完成 商工中金より3,000万円融資受ける(2階建)
昭和35年11月 豊川市平尾町に東海カントリークラブ(ゴルフ場)食堂を経営する
昭和36年 4月 1日 国民皆年金法成立し 国民年金拠出はじまる
昭和36年 6月 三村三時 代表取締役 病にたおれる
昭和36年 6月 6日 三村三時 観光事業功労者として運輸大臣表彰をうける
昭和36年 9月14日 代表取締役三村三時 蒲郡市民病境にて病死
勲六等に叙せられる
昭和36年 9月23日 代表取締役に五島良吉氏就任する
昭和36年10月 東京オリンピック開催後景引後退する
昭和37年 1月25日 取締役兼支配人に小泉浩就任
昭和39年12月26日 名古屋財界と資本強化合意したが途中で中止となる
昭和40年 重油式ボイラーに切換 電気冷蔵庫設置
昭和40年 蒲郡ホテル地下室酒場ホール、事務所を改造し結婚式場を兼ねたアゼリアホール完成する
事務所は共楽館に移転
昭和40年 昭和39年12月26日 名古屋財界との間で蒲郡ホテル資本強化について折渉していたが不調に終わる

昭和41年 8月 共楽館廃業
昭和42年 8月 1日 常磐館接待員 山川ぶん(通称 おひろさん?)運輸大臣より観光事業優秀従業員として表彰される
昭和44年 3月 東海カントリークラブ食堂撤収して廃業する
昭和44年 6月21日 タキヒヨウ(タキヒヨー)株式会社 当社株式を取得大株主に
昭和45年 1月 7日 当社税務顧問死亡
昭和45年 3月 2日 取締役に滝富夫(タキヒヨーKK社長) 徳永一男(丸佐株式会社社長)
仝 黒沢隆平(タキヒヨーKK副社長)
監査役に林義一(タキヒヨーKK財務部長) 小川直(丸佐KK総務部長)
昭和45年 3月15日~
9月14日 万国博開催 外人客の来蒲は少なし
昭和45年 8月 6日 昭和45年6月8日申請中の蒲郡ホテル両替商(外人からの外国通貨買取)の開始認可を受ける
昭和45年 8月 竹島あさり全滅
昭和45年 9月 三河湾魚類全滅 公害問題発生
昭和45年11月 昨年までの好景気は本年下期より不況色つよまりサービス業に影響が出はじめる
昭和46年 3月 常磐館、蒲郡ホテル 火災報知の煙感知機設備完成する
昭和46年 6月17日 常磐館従業員 山川ぶん 黄綬褒賞をうける
昭和46年 8月 2日 蒲郡ホテル従業員 阿知波去津?運輸大臣より表彰を受ける
昭和47年 8月 竹島館廃業する(蒲郡市へ竹島館と竹島遊園を返還する)
昭和47年10月 竹島館とりこわす

昭和48年 8月 中東戦争により石油ショックをうける石油不足に価格上昇する
昭和48年11月 蒲郡市民会館内に食堂サンポートを営業する
昭和48年12月25日 常務取締役 小栗浩 豊橋市民病院にて病死
昭和49年 1月28日 常磐館取締役に 林義一 就任
監査役に中峰英樹(タキヒヨーKK財務部長)就任
代表取締役 五島良吉氏 常任し取締役に就任
代表取締役に 滝富夫、徳永一男 両氏就任
昭和49年 6月 3日 代表取締役に 岩田弘氏(タキヒヨーKK社長室長)
昭和49年12月 1日 蒲郡ホテル暖冷房設備資金として全信連より3,000万円融資をうける
昭和50年 3月 1日 (株)常磐館の社名を(株)蒲郡ホテルに変更登記する
昭和50年 8月 蒲郡ホテル従業員 小田修一 運輸大臣より表彰される
昭和50年 9月 ブライダルフェア―を開催し婚礼作戦開始する
昭和50年10月20日 取締役 林義一氏辞任
昭和51年 2月 8日 中日写協主催 蒲郡ホテル三河湾国定公園を影す会があった
昭和51年 8月 6日 常磐館従業員 菊井照(通称 おてるさん)運輸大臣より表彰をうける
昭和51年 9月 共楽館(売店と事務所)を残しとりこわす
昭和51年10月 8日 構内交換電話設備をクロスバー自動交換装置におきかえる
昭和52年 4月 竹島八百富神社大開帳
昭和52年 6月 5日 進駐軍接収時従業員OB㐧1回会合(市民会館サンポート於)
昭和52年 6月13日 代表取締役 岩田弘 辞任し後任に 鵜飼育三氏(タキヒヨーKK業務部長)就任

昭和53年 4月25日 蒲郡市民会館内サンポート食堂から撤収廃業
昭和53年 8月 1日 常磐館従業員 前田恒子 運輸大臣より表彰をうける
昭和54年 2月22日 代表取締役 鵜飼育三氏辞任し後任に浅井正雄氏(東海BKより出向)就任される
監査役 小川直氏 辞任し後任に 梅村富太郎氏(丸佐株式会社 経理部長)就任される
昭和54年 3月17日 蒲郡ホテル登坂道路側面がけくずれ修理をし昭和54年8月完成
昭和54年 8月31日 蒲郡おみやげセンター休業
昭和55年 2月 8日 午後専務より当社が昭和55年3月31日をもって廃業する旨通告され
蒲郡市役所へ売却されることになった NHKテレビで放映された
昭和55年 2月 9日~
3月31日 廃業発表後 蒲郡ホテル、常磐館、緑西閣は当社開業以来最多忙を極める
昭和55年 3月31日 㐧1回目の従業員解雇
昭和55年 5月31日 㐧2回目の従業員解雇 31日現在 在籍従業員70名
昭和55年 6月15日 㐧3回目の従業員解雇
昭和55年 8月 㐧4回目の従業員解雇
昭和55年 4月 3日 ホテル裏山 豊川稲荷大祭、解体して豊川稲荷にお戻しする
昭和55年 4月 7日・8日
竹島会お別れ旅行 岡山鷲羽山と後楽園並びに大原美術館 68名参加 全員に記念アルバム進呈する
昭和55年 4月20日 税関両替商廃止
昭和55年 5月31日 国際観光登録ホテル登録廃止
昭和55年 4月 1日~

6月15日 昭和55年2月8日現在の予約客の売上奉仕する
昭和55年 6月15日 最終営業休止する
昭和55年 8月 蒲郡市へすべての事務手続き完了し引渡す

追記
・昭和19年 竹島橋伝統金具、当社内シャンデリア等金具を軍へ提供により蒲郡ホテル屋根銅板の供出は免れた
・昭和 7年 6月12日 ホテル建設時の蒲郡町年間予算は22万円
・昭和37年 2月 常磐館東 養魚池(大正2年営業と同時に池を新築し池の中央に月見堂を建てた)が
・昭和28年9月25日の台風(13号)により破損し更に昭和34年9月の伊勢湾台風により、ひどく被害をうけ土地造成し埋立てたのが今の常磐館の東の庭園であり、その東の浜を埋立て造成し3,000坪の今回市に売却した土地である
・常磐館の門は大正2年に建設し現在に至る
・社会党?委員長で蒲郡出身の鈴木茂三郎氏が車夫の父を手助けしたのは有名であり その後 三村三時支配人が名古屋から浅岡嘉太郎氏を当社に雇い長い間 人力車を運転している この人は戦後は事務所用務員として務め昭和43年に亡くなられた
・常磐館の名声を有名にしたのは菊池寛先生である その作品「火華」は常磐館の1室で1ヶ月かかって執筆された その年は大正7年であった
・蒲郡ホテルの開業当時 昭和9年 最高1室2人部屋30円 最低1人部屋4円50銭であった
・鶯宿亭の茶室は香雪庵という
・緑別館(現の緑西閣)は階下和室階上洋室のめずらしい建物
・昭和10年頃の常磐館の宿泊料は4円 中食料は2円内外

同ホテルの朝食料は1円30銭 夕食料は2円50銭 昼食料は2円


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